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滝沢克己の世界

克己十番勝負
滝沢克己は日本の思想家には珍しく論争的な人物だった。その中には二十世紀
の大思想との格闘がある。かれの生涯から十の批判をとりあげて参考に供しよう。
新吾十番勝負ならぬ克己十番勝負!
(なお相手側からの滝沢批判や反批判がある場合もあることを添えておく)

もくじ
一番勝負 西田幾多郎批判

二番勝負 カール・バルト批判

三番勝負 マックス・ウェーバー批判

四番勝負 カール・マルクス批判

五番勝負 宇野弘蔵批判

六番勝負 久松真一批判

七番勝負 J−P サルトル批判

八番勝負 八木誠一批判

九番勝負 山本義隆批判

十番勝負 山本七平批判

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言葉の洪水は思考の速度を表示し、根源語による批判は思考の深さを表示する。
そして何より、それらの発せられた時期の早さと批判の一貫性。
私たちは滝沢に追いつけるのか? 今もこの問いは生きる。くりかえし読まれたい。

以下、滝沢克己のテキストは遺族の了解の下に公開されています。
 また、テキストはウェッブ用に編集・改行しています。

一番勝負 西田幾多郎批判

 永遠の生は永遠の死に比すべくもなく強い

 
ここに於いて私は一つの重大な疑問を禁ずることが出来ない。創造主と被造物との間の侵すべからざる秩序を表す絶対の非連続の連続は、果たして「絶対の生即死」という言葉を以て適切に言い表されることが出来るであろうか。・・・

 ・・・ここに於いて私は前の疑問と連関して、もう一つの重大な疑問に逢着せざるを得ない。即ちかくの如き意味に於いて弁証法的なる実在の動きを、「弁証法的一般者の自己限定」として単に一元的なるものの如く言い表わすことは、果して適切であるか否かということである。かくてはなお、禁断の樹の実を食うことによってひらかれた眼による物の見方が、いまだそこに残っているという重大な誤解を避け難いのではあるまいか。

 もし「弁証法的一般者」、即ち絶対の非連続の連続の媒介者が創造して創造せざる絶対の主体として神を意味するとするならば、そこから物が生まれ、物を身体としてもつ人間が生まれ、その消極的条件として単なる虚無が置かれるということは出て来るであろう。しかしただそれだけからは、その人間がいつも神を逃れて樹陰にかくれなければならない人間であり、その虚無が彼を空しき焦燥と矜持に追いやるところの絶対の死であるということはどうしても出て来ない。両者の間には如何にしてもアダムの転落ということがなければならぬ。罪は何処までも我々自身の責任なのである。

 現実の私は創られたるものでありながら罪を荷う私として、生まれながらにして永遠の生命と永遠の死との間にある。それ故に私から見れば、絶対の生なる神と絶対の死なる虚無とは、各々常に測るべからざる力を以て私の歩みを限定する。否、私が神の光によって己の罪を認めざる限り、絶対の死は私に対して結局に於いていつも決定的な力をもつ。更に私が私を創る永遠の生命に眼をみひらく時、私はまた同時に必ず私を取囲む永遠の死の淵に眼覚めなければならない。かくしてそれはいつも絶対の死の面即生の面と考えられるであろう。

 しかしそれは何処までも単に一なるものとして私を私の背後より限定し、私がそれに於いて生れ、それに於いて死するものと考えられてはならない。絶対の死の面と生の面とが単に同等と考えられてはならない。絶対の死の淵はただ、人間が神の背く時、自ら招くところの神の刑罰として存在するのである。人とあらゆる物との主は、またぜったいの死の主たるものである。人にとって避くべからざる絶対の力たる死も神にとっては単なる虚無に均しいのである。

 神は十字架に釘づけられ、地獄に降りたる人の子を蘇らしめ、天に挙ぐるところの神である(使徒信経)。死は何処までも死であり生は何処までも生である。しかし永遠の生は永遠の死に比すべくもなく強いのである。死の淵にありてなお、その恵みによって神の知に導かれたものの強さは、いつも神そのもののかかる力の反映にすぎない。

 それ故に私は、私は、この事態を絶対の死の面即生の面として、単に弁証法的一般者の自己限定の契機と考えることは許されないと思うのである。もしこれを強いて絶対の否定面即肯定面として弁証法的一般者の単なる契機と考えるならば、西田哲学のいわゆる弁証法も結局に於いて一つの誤魔化しにすぎないかの如き誤解を免れないであろう。

   
(「西田哲学の根本問題」(1936)、『著作集 1』(法蔵館)、35、37、39頁より)
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二番勝負 カール・バルト批判

 神から人への道は到る所に開かれている

 
我々は我々の考察の過程に於いて、信仰が狭義に於いても、換言すれば認識としてもまた、ただ神から、神の子からのみ可能であることを、原理的に確認し、同時にまた信仰が聖書によって我々に可能とされることを事実的に洞察した。是に於いて、「神から」という原理的な可能性と「聖書から」という事実的な可能性とがいかなる関係に立つか、という問題が生ずる。

 人から神への道はないということは原則的に確認せられた。しかし正にそのことによって神から人への道は常に到る処に且つ時々刻々に開かれている、三一の神はただ彼が欲しさえするならば何時でも何処ででも、この世界の中に閃き来って自己自身を啓示することが出来る、ということが意味されていはしないであろうか。

 ・・・我々はキリスト者として、聖書の外で神について語ろうとする凡ての他の本や著述を、それらのものをただ一度も読むことなしに、頭から全く呪われた偶像崇拝であると断定しなくてはならないのであろうか。我々はキリスト者として、異教徒に対し、彼らが悪魔の子であるという、一歩も退き得ない前提を以て立ち向かうことを許されるであろうか。・・・


 (「信仰の可能性について」(1935、独文)、邦訳『著作集 2』(法蔵館85頁より)
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三番勝負 マックス・ウェーバー批判

「如何にあるか」が「如何に生きるか」を指し示す


 ・・・彼のいわゆる「価値判断からの学問の自由 Wertfreiheit der Wissenschaft 」の理説が、彼の実践的情熱の欠乏ではなくして、むしろ一応は、徹底的に現実に即しようとする彼の科学的精神の現れであり、その禁止的警戒が、ただ、一方現代の暗さと複雑さに堪えかねて、性急に「如何に生くべきか」の究極的解決を求める多くの人々の弱さと、他方、かかる大衆の弱さにつけ入って自己の世界観乃至実践的立場を究極絶対のものとして強要する偽予言者どもの僭越にかかわるものであることを明らかにすることが出来たと思う。無論「時代の宿命」に関するウェーバーの論述が、様々な価値の分化抗争という新カント派的哲学に傾き、暗澹たる現代の物質的基礎の問題に触れることの余りに少ないということは、指摘せられなければならないだろう。・・・

 我々が現実に於いて「如何にあるか」の科学的究明を離れて、「如何に生くべきか」、「人生とは一体何であるか」の究極的解決を憧れ求めるということは、ウェーバーのいう如く、確かに我々の弱さである。・・・しかしそれにもかかわらず私は、最後に、一つの重大な疑問を禁ずることが出来ない。はたして我々は、ウェーバーのいうように、かの危険なる憧れを自ら棄てようとして徹底的に棄てることが出来るであろうか。我々が「時代の宿命」に堪えるということによってそれは根絶せられることが出来るであろうか。

   私は否と答えざるを得ない。何故なら、我々はもと、かかる憧れを自らもとうとしてもったのではない。我々が「時代の宿命」をまともに見詰めて、「人は究極に於いて何のために生きるのであるか」という問題の前に踏みとどまるという時、そこにはなお、出来うべくんば、この手をもってそれを把えようとする、物欲しそうなまなざしが残っているからである。

 ・・・徒に新しき予言者と、真正の救世主を待ち望むことをやめ、人生と世界との究極の意味を問うことをやめて、我々の各々がそれぞれその人生を操っている守神(デーモン)を見出し、且つそれに従って仕事に立ち還るべきであるという、マックス・ウェーバーの結論は、我々をして、その各々好むところに従って、アポロンとアフロディテと、その他数多の神々に供物を捧げ、そして最後に、或はむしろ最初に「知られざる神」の宮を祀ったという(『使徒行伝』第十六章)かのアテナイ人を思い起さしめないであろうか。・・・

 「新しいしかも真正な予言者」はすでに来ている。絶対に新たなる救世主は、すでに今ここに、私のところに、そうしてまた汝のところに立っている。キリスト・イエスとその証人の群、一巻の聖書が、我々の各々が究極に於いて何のために生き、如何に生きるべきかを語るであろう。・・・そこには、我々が「如何にあるか」ということの一厘も仮借するところなき根本的な認識が、同時に、「如何に生きるべきか」という問いの究極的な解決たらざるを得ないような、そういうあるものが指し示されているのである。・・・

 なおついでに一言するならば、マックス・ウェーバーがキリスト教神学について述べるところは、神学がその真の対象を見失った近代主義的キリスト教 Modernismus のそれに関わるものとしてのみ、一応正当な意義をもつことが出来るものである。ウェーバーが神学の真の対象に関して如何に盲目であったかは、彼の引用した聖書の語句の、ほしいままな、事態の全連関を全く無視した解釈に徴して明らかなことである・・・

(「職業としての学問ーマックス・ウェーバーの講演に因んで」(1936)、
                    『著作集 8』(法蔵館)478〜481頁より)

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四番勝負 カール・マルクス批判

 土台とその上に立つ物には不可逆な関係がある

 
『ドイッチェ・イデオロギー』におけるマルクスの新しさは、かならずしも単に、宗教を始め人間生活の「精神的」側面に対する、「物質的」側面の「土台」的性格を発見し、強調した点にあるのではない。その「土台」そのものがいかなるものかを、その歴史の現実に即し、その本質の根源的な構造にまで立ち入って、真に学問的に究明しようと志した点にあった。

 典型的な資本主義社会の出現の過程にそうて発展してきた国民経済学の徹底的な研究は、かれをしてついに、「それを中心として経済学の理解が転回する跳躍点」として、「労働の二重性」の概念を批判的に確立せしめた。それはおそらく、『ドイッチェ・イデオロギー』のはじめに、歴史の大前提をなすものとして高揚された「物質的生産労働」そのものの、もっとも深くかくれた基本構造を、商品形態の分析・批判をとおして、始めて明らかにしたものといってよいであろう。

 ただしかし、それにもかかわらずマルクスは、「商品の二要因」に対応して、そのような「二重性を帯びた労働」・あるいは「労働しつつある人間」そのものに含まれていることとして私が前章に明らかにした根源的な包摂関係については、寡聞な私の知るかぎりあからさまにはついに一度も、これに言い及ぶことをしなかった。ところが、実際は、物質的生産労働が人間の生活・社会の第一の「土台」だということを、よしいささかの留保もなしに承認するとしても、この土台的行動そのものに、よくよく見ると、マルクスのいう「二重性」と不可分であるがそれとはまた全然意義を異にするところの、根本的な二重性が含まれているのである。

 なぜかというと、他の諸物を支配し、生産する主体としての人間の労働は、他の何ものの働きでもなくて、あくまで、そのような人間自身の能動的な働きである。ところがまさにこのことが、全然人間の働きによって成ったものではない規定・それに対しては人間的主体が全く単純に受動的であるほかない本質的な規定の支配のもとにのみ、実際に起こりうること、おこっていることなのである。

 それに対して絶対に受動的だということ、いかなる意味でも主体ではなくてまったくただの客体に過ぎないということは、人間的主体が動物と異なってあくまで選択的な主体でないということではない。むしろ全然逆に、絶対に避くべからざるその規定の支配の下にあることによってのみ、人間的主体は始めて人間的主体として、立ちかつ伸びることができる

 その支配の包摂する範囲の外に出るということは、人間にとって全然不可能である。それと知ってにせよ知らずにせよ、その支配に背反して自己自身を維持しようとする人間ないし人間社会は、逆にかならず単なる虚無の支配を受けて、枯渇し、混乱し、滅亡しなくてはならない。

 それゆえに、われわれが「観念論的」な主観主義、人間生活の事実の厳粛さから浮きあがったイデオロギーのたわむれを脱するためには、われわれは、ただ「宗教その他のイデオロギーの諸形態」に対して、物質的生産労働の土台性を強調するだけではまだ足りない。どうしてもさらに一歩を進めて、物質的生産労働そのものに含まれているところの、根源的本質規定と歴史的形態規定とのあいだの、一種ユニークな包摂関係にまで立ち入らなくてはならない。

 砕いていうと、ふつうにいわゆる「土台」そのものにおける真実の土台とその上に立つ建物、前者に固有な根源的法則の支配と、その避けがたい支配の下に行なわれる人間の主体的活動とのあいだの、たがいに分離すべからず、混同すべからず、逆にすべからざる弁証法的関係を明らかにしなくてはならないのである。

 ・・・あきらかにそれを言い表わすにいたらなかったということは、おそらくかれ〔マルクス〕もまたかれの先輩たちと同じように時代の子として、近代市民的な「ヒューマニズム」の呪縛をまだ十分に脱しなかった証拠でもあろう。・・・〔しかし〕この「土台」そのものにおける「土台」とその上に立つものとの不可逆的な関係を正当に評価するということが、マルクスの「唯物論」の唯物論たる所以であろう。この不可逆的な構造を見失うかぎり、いかに「土台」の優位を強調しても、ひとは極端に空虚な「観念論」に落ち込むことをまぬかれない。


 (「「現実にあるがままの個人」とは何か」(1957)、
                 『著作集 6』(法蔵館)67〜99頁より抜粋)

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五番勝負 宇野弘蔵批判

技術とは、人間の社会的関係と切り離せない
 
 
さて、資本主義社会の歴史性、したがってまた商品経済の基本的諸法則の歴史性ということが以上のようなこととすると、そこにおのずから、宇野氏の所説に対する一つの重大な疑問が生じてくる。

 というのは、氏によると経済学の原理が自然科学のそれと違って、「歴史的」な社会科学のものであるのは、それが経済原則そのものにかかわるのではなく、商品経済の基本的諸法則にかかわるからである。しかし、商品経済に特有な法則というのは、もともと、われわれ人間がその生活の永遠に現在的制約の要求に忠実に応えない場合に、われわれの意志に反して、逆に  いわば天の懲罰を受けるというような形において  実証せざるをえない経済原則そのものの犯すべからざる権威である。

 だから、商品経済のなかの最も基本的なものを明確に理解するということは、積極的にいうと必ず、経済原則そのものの明確な理解ということでなくてはならない。経済原則の明確な理解には、必ず、それを理解しないことの可能性  人間がこのような原則であらわされる基本的制約に忠実であるか然らざるか、いずれかの生き方をする必然性  の理解が含まれていなければならない。

 それゆえ、経済原則の理解はそれが厳密に学問的であるかぎり、経済学の原理的理解から決して引きはなすことができないものなのではないか。前者は常識でわかるが、後者は特別な分析を要するというようなものではないのではないか。常識で分かったと思っていても、それは、ちょうど電灯がなければ、仕事ができないということが分かるということが、少しも電気の原理が分かったことにはならないのと似たことで、学問的論理的に、我々人間の経済的生産の現象を把握してはいないのではあるまいか。真にその名に値する経済原則の学問的理解というのは、マルクスが、それの理解のなかに価値の本質の完全な理解が含まれているといった労働の二重性にまで透徹したものでなくてはならないと思うがどうであろうか。

 氏は、「我々の社会生活に物質的生活資料の生産が必然的だ」という「経済原則」はいつ、いかなる処ででも、人間がそれを無視しては生活できない制約として、単に「自然必然性とでもいうべきもの」であるとか、単なる技術の問題にすぎないとかいわれる。しかし、氏の頭の中ではそうでありえても、人間が生活資料を生産することなしには生きられないという事実そのものは、けっして、氏のいわれる意味で「自然必然性」によることではないし、また自然科学の対象として把握しうる(その原理によって表現しうる)ことではない。それはすでに単に自然科学によってみちびかれうるような「技術」によっては処理することのできない現実なのである。

 人間が物を使って物を作り出すということは技術である。そしてそれをみちびくものは自然科学的な認識  人間の歴史にはかかわりなく永遠に現在的な自然法則の理解に導かれ、またこれを目標とするもの観察や分析  である。しかし、技術そのものはけっして単に自然科学的にこれを理解することはできない。それはすでに一つの人間的現象、人間の歴史的行為として、人間的労働そのものの本質と、したがってまた、経済的社会的関係そのものと、離すことのできない関係を含んでいる。マルクスが人間的労働の二重性を言いえたのは、すでにかれのこのような、技術の本質についての新しい洞察があったからではないか。これに反して宇野氏はなお、人間が道具を使って物を作るということが、何かこの世界の中に置かれている人間にかかわることではなくて、この世界の外にいる人間が中空から任意に物を処理するのであるかのように  あたかもわれわれが幾何学的空間を処理するのと同じように(実はこの場合にすら人間はけっして空間の外にいて考えたり、作図したりすることはできないのだが)  考えているのではないか。氏にはなお技術についての、単に技術的な見方  ベルグソンや多くの実存主義者もなお抜け切らぬその見方  が残っていはしないだろうか。


(「社会主義社会における自由の問題」、『著作集 9』(法蔵館)264〜6頁)
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六番勝負 久松真一批判

「覚」を絶対的基準とする傾きをまぬがれない
 
 ・・・キリスト教徒が、キリストの歴史的世界における基準的形像としての働きと、絶対の言(ことば)もしくは創造者としての働きとの明らかな区別を見分けることなく、例えば久松博士の「無神論的宗教」を、ただその言葉の端々に囚われて、頭から「神を涜(けが)す者」として断罪するならば、そのようなキリスト教徒はその根本のパリサイ的な心情において、われわれがこの評論の冒頭に掲げたユダヤ人たち、「神よりか、人よりか」と問うてイエスを試みたあの人々と少しも異なるところはないこととなるであろう。

 かれらもまた、かれら自身の自己成立の根底にほかならぬ神と人との永遠に現実的な区別を含む絶対に普遍的な接触点を遊離して、「聖なる神」と「罪なる自己」とが抽象的・孤立的に実在しうるかのごとく考えていたからこそ、元来かの絶対の接触点から出てそれを明らかに指し示しているモーゼの律法を唯一絶対の接触点だと信じたからこそ、その律法から全く独立に自己自身から語りながらしかも真実の神を語るというイエスの「傲慢」をどうしても容赦することができなかったのである。

 かれらは唯一の聖なる神の前にへりくだったつもりのかれら自身が、真実の神に対していかに決定的に傲慢な、ほしいままな独断を犯しているか、ということには夢にも思い及ばなかった。このようにして、かれらパリサイ人にあっては、唯一絶対の神を崇めるということが、いつのまにか、この世界の内部には決して起こりえない区別あるいは優劣の差を自分たちと他のすべての人々とのあいだに妄想し虚構するための単なる手段に転化した。

 『パリサイ人のパン種に注意せよ』(
マタイ伝一六章五節以下
 そう、くりかえし注意したとおり、イエスの生涯はじつに、神そのものの人としての躍動として、このような妄想と虚構の最初からの虚しさを徹底的に暴露するために費やされたのであった。もしも今キリスト教徒が、そのイエスの生涯をふたたび同じ妄想と虚構のために利用するようなことがあるとしたら、禍これより大いなるはないといわなくてはならないであろう。

 こういう意味において、久松博士の『無神論』は、たしかに今日のキリスト教にとって苦い、しかしはなはだよい薬だといってよい。その治癒的な効果は、たしかに神と人との永遠かつ普遍の接触点からすなわち真に唯一絶対的な創造の主(語の最も厳密な意義における「絶対能動的主体」・「主体的主体」)からきているのである。

 ただ惜しむらくは、それは、キリスト教のパリサイ主義を排すると同時に、キリスト教信仰のなかに本来含まれている積極的な真実を曖昧にしてしまった。

 「往相・還相する私」というその「私」、「私の底から甦る」というその「底」、「此処を離れずして此処を脱する」というその「此処」それ自身を堅く心にとどめて、そこに現れるあらゆる形態を徹底的に  本質的ならびに事実的に、根元的ならびに歴史的に  考察し、批判し、創造するよりも、むしろ、いかに正しくかつ根本的であるとはいえただそこに現れた形態の一種にすぎない自分の「覚」を絶対的基準として、この世界のすべてのことを考察し、批評し、処理しようとする危険な傾きを免れなかった。

 むろん、その人の「覚」が「此処を離れずして此処を脱した」ものとして正しい人間の自覚であるかぎり、仏教徒の破綻は、単なる神秘主義、非合理主義ないし御都合主義にまで転落することはないであろう。それはあたかも、霊においてイエス・キリストを信じるキリスト教徒が、古来よく,ありとある異端の誘いを退けて、その正統を維持してきたのと同様である。

 しかしながらそれにもかかわらずキリスト教が今日、その形態の不自然な硬化と、したがってまた、旧教からの新教のそれに始まる果てしない分裂を経験しつつあるとすれば、仏教における無数の宗派の濫立と、仏教徒に事実ありがちな、広い意味での科学的研究と歴史的・社会的建設への無関心、つまるところは政治的御都合主義とが、おそらく仏教の最善のものにもなお残る右のような曖昧と何のつながりもないものとは、何人も断言することができないであろう。


 (「仏教とキリスト教」(1950)、『著作集 7』(法蔵館)343〜5頁より)
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七番勝負 J−P.サルトル批判
 
存在の根本規定を明かさず人間を中心として一切を見る

 それにもかかわらず、目下のわたくしの考えでは、サルトルの哲学は、かれ自身もその哲学的主著である『存在と無』の副題に『現象学的存在論の試み」と書いたように、これまでのところ、なお人間という、事実存在するものの現象形態の一つを、ただそれとして考察したものであって、事実存在するものそのものの根本規定を、直接かつ端的に明かにしたものではありません

 人間の自己を孤立的に実体視あるいは主体視するかわりに、事実存在する人間の本質を、明瞭にかつ的確に把握したといってもそれはまだ、いわば端的に存在する全自然のなかから人間の誕生とともに現れてくる世界だけを切り取って、その本質規定を取り扱っているのです。

 むろん、人間は一挙にすべてをなしえないのですから、その切り取り方がサルトルの場合のようにちゃんと存在それ自身のすじ道にかなって少しの無理もないかぎり、そのこと自身はわたくしどもとしてこれを咎めるよりも、むしろ大いに感謝しなくてはならないことでありましょう。ただ問題はかれの叙述のなかに、いま一々その例をあげる余裕はありませんが、しばしば、人間を中心として他の一切を見ようとする傾き、人間の誕生とともに現れてきた、そして現に現れつつある人間的世界のほかに世界というものは全然ありえないかのような口吻が見出されるということです。

 一九四五年のかれの講演 "L'Existentialisme" の最初に、「ペーパーナイフその他のものにおいてはその存在に本質が  ここで本質というのはただ人間の考え、あるいは計画にすぎませんが  先立つ、しかし、少なくとも一つ、それにおいてはその本質に存在が先立つものがある、人間がそれである」といっているように、かれにとっては、人間以外の他のもろもろの物は、それ自身における存在の理由をまるで有たないかのごとくであります。

 少なくともかれは、人間となる以前のただの存在、かれのいわゆるそれ自身における存在("l'etre-en-soi")の規定についてかれがただ、孤立的にあるにすぎないとか、ただ在るということだけだとか、何ら自由を含まない鈍重なものだとかいうだけで、少しも積極的に明らかな言葉を語ろうといたしません。

 そうしてただひたすら、フッサールその他、かれ以外のほとんどすべての現代哲学は、人間の単に物的な把握("prise chosiste")、人間を単なる物("l'etre-en-soi")に貶して見る見方を脱しないといって批難するばかりなのです。

 その場合かれが、単に抽象的な、すなわち真に主体的・客観的でない、近代主義的人間観のもっとも繊細な形態(たとえばベルグソンのそれ)までも容赦なく摘発したことは敬服に値するとしても、「人間を単なる物に貶して見る」というかれの言い方は、知らず識らずのうちに、かれ自身、「単なる物」("l'etre-en-soi")について、それらの人々と「人間的な、あまりに人間的な」偏見をともにしていることを暴露してはいないでしょうか。

 そのようにいうことをはばからないかぎり、たとい近代主義者たちのように、単に空想的な自己のうちからではなくたしかに事実存在する人間のうちからであるとしても、かれもまたやはり人間のうちから、人間中心的に、この世界を眺めているといわなくてはなりません。

 一歩一歩に断絶を認めることのないベルグソンの「純粋持続」の哲学を、なお真に主体的必然的な人間の動きを理解しないものとして厳しく批評したかれ自身、その心の最も深い奥底には、物質を単なる弛緩と考えたベルグソン的な世界の見方を、人間がただの物に転落することへの不断の恐れを、したがってまたいわゆる創造的決断へのどこか病的な焦りを、残しているといわれても、弁明の余地はないのではないかと思われます。


  (「二つのヒューマニズムと今日の日本」((1957)、
                         『著作集 6』(法蔵館)151〜3頁)

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八番勝負 八木誠一批判

新しい生命の基盤としての神的なイエスの座への眼を


 しかし、以下の諸点において、氏と私はまったくその見解を異にするがごとくである。

 (1)氏は「正しい宗教的実存」ないし「実存論」から、一方、哲学的な「存在論・認識論」を、他方、一般に「神学」を、排除する。これに反して私は、真に正確な実存論は、哲学ないし神学に対して氏のいうごとく「中立的」ではありえない、事実存在する人は、人ではない神においてのほか、どこにも成り立ちえない以上、正しい存在論、真実の神の認識を欠く人間的実存は、かえって純粋に人間的たることを失う、と考える。

 聖書にしたがって、カール・バルトの明らかに言うとおり、人間の正邪・善悪・賢愚を超えて、真に親しくかつ公平に人間にかかわるものは、「イエス・キリストの父なる神」のほかにはありえない。人間にとって真正の中庸の道は、実践的にも、理論的にも、ただそこからだけ開けてくることができる。

 この狭き門、この細い道を素通りして、人間の「正しい実存」を「前提」に据える者は、よし「イエス的実存」といっても、そのことによってすでに、存在と虚無、神と悪魔の区別さえさだかならない霧のなかへ迷い入ることをまぬかれない。氏のいわゆる「純粋直観・対他連関」についてもまた、このことがそのままに当てはまらないかどうか、私ははなはだ疑いなきをえない。

 (2)・・・氏はナザレのイエスの宗教的実存、一般に「正しい実存」とは別に、それを超えて哲学的な存在論・認識論とキリスト教的神学の営まれることの可能と必要を信じて、この課題を将来に残す。しかし私は、そのようなものの必要性はもとより、可能性さえ認めない。・・・

 (3)氏における右のような曖昧は、聖書に即してこれをいえば、「神の子イエス・キリスト」の見つめ方、このペルソナの分析の不足である。もし人イエスの「宗教的実存」を言うなら、それが、その人の成立の根底に厳存する神人の原関係の大前提のもとにのみ現実に生起したこと、したがって現実の人イエス自身の人間性においてもまた、事実存在する神と人とのあいだの絶対に不可分、不可同・不可逆的な、この関係に応じて、永遠に現在的な神の子キリストのはたらきと、これに完全に照応する人間的主体的なはたらきとして、その時その所に、歴史の内部に、始めて生起した形とのあいだ(かんたんにいって、福音の《Sache》 とその完全な《Zeichen》のあいだ)の、同様に不可分・不可同・不可逆的な関係が成り立っていること  すべてこれらのことが氏においては見のがされている。

 氏の「実存論的解明」によると、これらの事象そのものにかかわる聖書の表現は、ただそれだけで考えられた「宗教的実存」体験の内部から、その「原理」として反省的に表白・措定せられた観念として、その存在論的ないし認識論的な真偽批判は、それとは別の神学的・哲学的検討に委ねられることとなるのである。

 しかし私見にしたがえば、まさにそれとは正反対に、そのような聖書独得の表現こそ、イエスの実存の本質的性格についての、その真実の隠れたる基礎からの、すなわち真に学問的な理解・説明なのである。イエスの実存の真実あるがままなる理解と説明は、たとい「本質的にそれにひとしい」われわれの実存であっても、単に人間的主体的な実存の内側から、これを遂行することはできない。・・・

 (4)聖書の純粋なイエス像を構成する二重の二重性  いわば絶対に不可逆的な秩序において区別せられる神と人との、唯一原点における「実体的」な統一と「作用的」な統一として、二重の二重性を帯びた構造  をそのまま認めるとき、われわれはまた初めて、この像の人間的・歴史的側面すなわちイエスの実存の、由来する処・赴く処を、(a)神的・根源的と (b)人間的・歴史的と二重の意味において、明らかに見ることができる。

 一方、神的・根源的なイエスの座に基づきかつそこへ向かって、人間的・歴史的なイエスの位置  旧約・新約両聖書を分かつとともに結ぶ中心点、イスラエルの民からキリスト教会への転回点として、すなわち世界そのものの導きの星であるイエスの十字架の深い意義  が理解せられる。と同時に、他方、人間的・歴史的にこのような位置をしめるイエスの姿を介して、われわれはすべての人のために備えられた新しい生命の基盤としての、神的・根源的なイエスの座に眼を向けるよう導かれる。

 そのかぎり、聖書のイエス像は、それによってすぐにいわゆる「史実」としてのイエスの一生を知りうるような模写ではなく、いわば神人の原関係の圧力によってそれから脱化した純粋な人の像であるにはしても、まさにそのことによってそれじたいかえって、現実の人生・歴史をその最も捉えがたい内奥の芯にかんして、ありのままに、真に客観的・科学的に探求するための、具体的方法として役立つことができる。

 聖書のイエス像そのものの、このような方法論的意義を明らかに自覚することをとおして、われわれは初めて、ナザレのイエスとかれを取りまく社会の史実を、それとして真に科学的に、多かれ少なかれ、聖書のイエス像からずれているありのままの姿において探求・解明する可能性を獲得する。このことなしには、せっかくの史実尊重の精神も、当該史実の、最も興味深く重要な部分を、科学的な史学の外に追いやってしまうことになるほかはない。・・・

 (5)聖書のイエス像の方法的意義を右のごとく理解する者は、やがてまた、聖書に導かれつつ聖書を本質的ならびに歴史的に考察・理解し、説明・吟味することをつとめる「キリスト教神学」が、その局面こそ異なれ、あくまで客観的・主体的、感覚的・理性的なその方法において、他の諸科学、なかにも宗教的実存の対極としての生産的実存にかかわるものとして、ひとしく基礎的な人間の科学たる経済学のそれと深く通ずるもののあることを見出すであろう。・・・

 (6)最後に氏は、宗教的実存たるかぎり仏教とキリスト教とのあいだに、本質的な一致を想定する。たしかにそれは、従来のキリスト教界、仏教界に、ほとんど見られなかった深い直覚が含まれていることであろう。或る範囲において、筆者もまたそのことを否定しえない。しかし、それにもかかわらず、イエス・キリストのペルソナの分析は、私をして、仏教の根本的感覚もしくは自己理解と、キリスト教のそれとのあいだに、しかく容易に見すごすことを許さない微妙な相違の潜むことを気づかしめずにはおかない。・・・


(「聖書のイエスと現代の思惟」(1965)、『著作集 7』(法蔵館)
                                  237〜242頁より)

*この批判に八木誠一氏が応答し、以後滝沢の死に至るまで20年に及ぶ論争が始まった。
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九番勝負 山本義隆批判

 絶対無償の肯定と人間の自己肯定には不可逆の関係が

 ところで学兄は「自己否定」という言葉が、「何だか大変なことのように」「シンボライズされ(て)一人歩き」しはじめたことに「ためらいを感じ」ながらも、やはり、「自己否定即自己肯定」の「弁証法的」運動について語られます。それに対して、私(滝沢)の「思想を一貫して流れているのは〈自己限定〉ということではないかと思う」と言われます。

 学兄の場合、その「弁証法」は、ほとんどの「哲学者」たちに見られる「言葉のもてあそびによる先走り」とは無縁なこと、実際の厳しい闘争の中から、自分にも思いがけなく起こってくる「自己変革」の過程、「〔たんなる〕『私人』を否定(止揚)して〔『共同体の存在を前提としている』真実の〕『個人』を求め」てやまない必死の「努力」そのものであることは、私にもよく分かるように思います。

 ただそれだけになお、学兄が、私の「思想を一貫して流れている」ものとして「自己限定」について語られる時、どこかまた、私の言おうとしていることが、よく通じていないのではないかという疑いを禁じることができません。

 「《自己限定》の基盤を『主体そのものの成立の根底に、その主体のあらゆるはたらきに先立って無条件に帰属する大いなる決定』と表現している、そしてこの〈自己限定〉のよって立つ根を謙虚に受け入れることによって『個人の自由』をかちうるのだ」(傍点筆者)というふうに、私の考えを引用もし、ある点正しく解釈して下さるにもかかわらず、やはり学兄の場合、生活と思想の全体の重心が、学兄御自身のはたらきに、つまり絶対に有無を言わさず無条件に恵まれてきている「大いなる決定」、「絶対無償の肯定即否定、恵み即審き」そのものではなくて、むしろその支配の下に起こりかつ行なわれつつある人間的主体的な自己決定(限定)の方に、置かれているという印象を拭えないのです。そのことは、御手紙の中の次の数行にも、それとなく示されているのではないでしょうか。

「私はこのことを『人間でしかない』という〈自己限定〉の極限において最も『自由』たりうるという人間の自由・主体性の基盤の神学的解明であると受けとりました」。

 ここにも「人間の自由・主体性の基盤」ということが、はっきりと言われています。しかし、「人間でしかない」ということは、たとえある人において「自己限定」の明確、完成の度が「極限」までに達したとしても、第一義的な意味においては、決して「人間的、主体的な自己限定」ではなく、むしろそれに先立って常住不断に現在している単純至極の事実です。・・・

 重ねて申します。「自己否定即肯定の弁証法的道程」「『私人』を否定(止揚)して『個人』を求める努力」、そのために絶対に避けえない「徹底的対決」と学兄がいわれるその事自体に、私はいささかも異議をさしはさむわけではありません。

 ただその努力、行動により、言葉によるその対決が、現実の人の事として正確緻密に生起するためには、「ともにこれ凡夫(ただびと)のみ」という事実そのものに秘められている、人間的主体のではない、絶対無償・絶対不可侵の肯定即否定(否定即肯定)と、そのつど必ず何らか特定の形において生起する人間的主体的な「自己否定・自己肯定」との間には、後者の形の正邪・高低にもかかわらず、絶対に逆にすることのできない順序を含んだ区別と関係がある、どこまでも前者が先で後者は後、後者の形と動きとはすべてただ前者の支配する場においてのみ、時々刻々と起こりかつ行なわれるにすぎないということを、決して忘れてはならないというのです。

 なぜかというと、それを忘れたが最後、「眼には眼を、歯には歯を」というラディカルな闘いは、徹底的にラディカルであろうとして、その実は、実際の人生そのものの本当の根《radix》を遊離して、宙に浮いてくることをまぬかれません。自分でも半ばはそれと気がつきながらも、現代通有の、単に「抽象的一般的なヒューマニズム」の偽善に堕することを警戒するのあまり、いつのまにか、みずからを神とし、相手を悪魔とする傾きを帯びて来ます。

 眼に見える敵の首魁を「徹底的に粉砕」するつもりで、実際はそれとも知らず、当の首魁をその背後から操り、踊らせている眼に見えぬ本当の敵の首魁  キリストが「サタン」と呼んだ単なる虚無《das Nichtige》  の底なしの淵に向かって避けがたく驀進するようになってゆくからです。


 (「若き攻撃的研究者へ ―山本義隆氏に送る」、
      『大学革命の原点を求めて』(新教出版社、1969)
                            399〜402頁より)
*初出は朝日ジャーナル1969.6.29号での山本義隆氏との往復書簡で、同氏の「未だ見ぬ先達へ」に応えたもの

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十番勝負 山本七平批判

 人間の思いに先立つ自己成立の根底に盲目では


 おそらく、ベンダサン自身はそういうつもりであろう。・・・しかし、それにもかかわらず筆者には何としても、かれがなお、日本人の現実を、かれ自身のいわゆる「日本教」「天秤の世界」の現実の真実相を、十分によく見きわめていないように思われるのだ。・・・僭越を顧みずあえて言うなら、かれは「日本人」との比類なく深切な交わりをとおして、「人間」についての日本人独得な考え方を、せっかくあそこまで明らかにしながら、残念なことにまだ、事実存在する人間とはそもそも何か、結局のところどこにいるかについて、徹底した理解を欠いている。

 自己自身の生の真実の支え=判断の窮極的基準についての日本人の「無自覚」をあげつらいながら、かれみずからは、この問いを自己自身の生死にかかわる問いとして、突きつめて問うことさえしない。「まず、人間であれ」ということが、「繰り返し、繰り返し、実に執拗なまでに絶えず強調される」(同上七一頁)のが日本教の特質だと指摘しながら、「人間」そのものについて右の問いをみずから徹底的に問うことなしに、「日本人」もしくは「日本教」についてほんとうに正しく語りうるかのごとき、安易な幻想にとらわれているように見える。

 その証拠には例えば、かれが「いわば自己の言葉を客体化して、自らこれと対決することによって、自己の言葉から自由になる、として(ママ)これを”自由”と考える、という考え方が皆無」だと、日本人を批評するとき、そう批評するかれ自身はいったいどこに立っているのか。「自己の言葉を客体化する」とか、「自らこれと対決する」とか、「自己の言葉から自由になる」とかいうことは、そもそも自己自身のどこに基づき、何に向かって、人間にとって可能ないし必然なのか。  すべてこれらの肝要な問いについて、ベンダサン自身はなにひとつ積極的に明らかにしてはいないのだ。

  ・・・いうところの「天秤の世界」にかんするイザヤ・ベンダサン自身の盲点がどこに潜むかを、読者はすでに見抜いておられることであろう。第二部においてとくに詳しく明らかにしたとおり、人間の全生活(全人類の生)を支える窮極的支点は、たしかに事実存在する人間そのものに直接かつ無条件に帰属する。しかしそれはけっして、イザヤ・ベンダサンのそう考えているように「人間という概念」ではない。いな、まったく逆に、人間のあらゆる思いに先立って、真にそれ自身で実在する自己成立の根底である。・・・

 真にそれ自体で実在する人間の支点を、「人間」の一語で言い表すことは、かならずしも全然誤りというわけではない。・・・西洋の近代においても、かならずしも自覚されなかったわけではない。・・・問題はじつに、そのような「自覚」にもかかわらず近代の人が、当の「人間」の存在の事実そのものに絶対無条件に直属する  それなしには人間の主体性が事実的には全然成り立たない  根源的・弁証法的関係にかんして全然盲目だったという点にある。・・・

 「日本人の生全体の支点・窮極的基準は“人間”という概念である」。しかし「『人間』という言葉は日本人にとっては単なる言葉ではなく、他のすべての言葉と対置さるべき“実在”である」。「日本人には事実と語られた事実の区別がつかない」

 と、イザヤ・ベンダサンは言う。しかし、そのように批評するかれ自身には、「人間」という概念・言葉と、この言葉が本来それの射影・表現たるべき事実そのものの区別が、はっきりとついているであろうか。この肝要な一点にかんして、「日本人」だとか、「ユダヤ人」だとかいう特殊な資格・歴史的な制約を盾に、問題を逃げてはなるまい。

 それらのことがどうあろうと、かれ自身の事として、事態を徹底的に見きわめなくてはならないであろう。この困難な一事をを避けているかぎり、「日本人・日本教」はどう、「ユダヤ人・ユダヤ教」はこうなどと、あらゆる文献を駆使して述べたててみても、そしてその解説・批評がある点どんなに当たっていようとも、そのすべて、つまりかれ自身は依然として、イヴァン・カラマーゾフの苦しみをよそに、その弁舌の巧みさにみずからも酔い、ひとも煙に巻く、近代人の一典型にすぎないという批判を、免れるべくもないであろう。

 そうして、かれ自身が「正真正銘のユダヤ人」であれ、「かりにユダヤ人の名で語る日本人」であれ、またそのほかの誰であれ、その根本において「近代」の枠を脱しないかぎり、事実存在する人間としての日本人についてもユダヤ人についても、こんにちけっして、これを真に「客体化」する道、事実あるがままに「見」、理解し、批判・変革する方途の開かれようはないのである。


 (『日本人の精神構造』(講談社、1973)228〜233頁より抜粋)

   (なお、滝沢によるベンダサンの引用は『日本教について』(文芸春秋社)からである。
      文中、頁数の表示はすべて削った)

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